宮下囃子保存会
「オンライン文化祭2022」より (PDFでご覧ください)
お囃子練習編        お囃子夏祭り編       お囃子伝統芸能編
囃子保存会の歴史
 現・宮下囃子保存会の前身は「囃子連」と云い、その淵源はずっと以前に遡りますが明治の初期、現町田市小山に住んでおられた岡本徳右衛門という人が、自分の村にも祭囃子を響かせたいと発心され、東京神田明神に伝わる祭り囃子の家元に通いその技術を修得されて地元の青年団に広めて行ったのが始まりでした。 
 昭和22年(1947年)頃、当時この宮下地域は200~300世帯程であった時代ですが、「宮下にもぜひ囃子を・・」との声が高まり、青年団の16歳から20歳の代表20人が現在の町田市馬場(当時は「沼」と称した集落)に囃子を習いに行きました。
 これが宮下の囃子連の誕生へと繋がって行きました。 その後は宮下の夏祭りにも祭囃子が響きとても賑わったそうです。
 当時の宮下のお祭りと云えば御天縛皇神社さんで、毎年7月28日と29日が夏祭り、8月28日と29日は秋祭りでした。 夏祭りの28日は夜宮祭りと称し、どこの家庭でも軒に祭禮の提灯を下げ29日の本祭に備え祭り気分一色に溢れたようです。 
 秋祭りは少し様子が異なり、この地域が以前小山村だったころからの名残りで、宮上と宮下部落の双方が一緒になって御天縛皇神社さんに集まり祭りを盛り上げました。
 無論ここでも青年団による囃子は重要な役割を演じ、その他に昔は番田神楽なども登場したそうです。
 ところで少し話は変りますが、お御輿についてはこんな話があります。 宮下では明治時代には既に御輿があり御天縛皇神社さんの祭りには担いでいたのですが明治の終わり頃、担いだ後に流行病が起こったとかで以来担ぐのを止めたそうです。
 この御輿は現在も御天縛皇神社に納めてあり、以来座り天皇とか饅頭天皇とか呼ばれるようになり、お祭りにはお饅頭を供えたそうです。
 現在宮下自治会館に保管してある御輿は平成元年に造られたもので、夏祭りなどでは祭り車に安置され盆踊り会場にお飾りしているのがそれです。 当時から青年団は隣接する小山村(現小山町)、常盤村などとの交流も盛んでお互い助け合いながらそれぞれのお祭りを盛り上げて行きました。
 そんな中で宮下の囃子も成長しつつ少しずつ形を変えて行き、時代を経てその神社のお祭りも7月の最終土曜日にするとか段々変って行き、その後現在の宮下自治会が形成された頃から囃子連も自治会と合流し共に協力する関係が築かれて行きました。 当時は部落のみんなの寄附で段々道具を揃えて行ったそうです。
 道具とは、笛、太鼓(大小)、鉦、拍子、オカメ、ひょっとこ、テンホー(狐)、それに獅子舞の獅子や衣装などなど、当時も今もこれだけ揃えるのは大変なことだと思います。 やっと揃ったこれらの道具や技術は貴重な地域の宝物であり、伝統です。
 そこで当時の山﨑富夫自治会長(十四代:昭和52年)が囃子の維持策を打ち出され、まずは人集めから手がけて、その当時既に在ったこばと児童館で一年ほど掛け準備が行われたとの事です。 そして久保田利正自治会長(十五代:昭和53年~55年)の時代に、それまでの「囃子連」を「宮下囃子保存会」と改め、初代会長に久保田守衛さんが就かれました。
 この時期から、お正月に御天縛皇さんでお払いを受けた後、獅子舞巡行し、その収入で囃子連の組織と道具の整備や維持を賄う方式が始まりました。
 そして昭和56年には当時の関口茂夫自治会長(十六代:昭和56年~59年)の時代にも引き続き自治会が協力する形での獅子舞巡行行事が確立されました。 なお第二代宮下囃子保存会会長の常盤 勇さん(第二代:昭和57年~平成25年)は初代宮下囃子保存会会長の補佐役を当初から勤めておられました。 以来30年間、宮下囃子保存会のメンバーは毎年正月の獅子舞巡行を続けて来られたわけですから、伝統とは云え大変な努力と犠牲を払われたものだと感服する他ありません。 昭和59年には市民会館での催し「第4回 相模原市民俗芸能大会」【昭和59年2月11日開催】にも出場するまでとなり、引き続き自治会からも全面的な応援を得ながらスタート当初の目標であった道具立てもほぼ整備されました。
 ただ残念ながらメンバーの高齢化が進み、現実問題として正月の各戸巡行の様な激しい運動は厳しいのが実情となりました。 そこで「宮下囃子保存会」としては、当初の目標であった道具立て整備を果たしたということと、メンバーの高齢化も勘案して元日の獅子舞巡行行事は平成19年をもって取りやめとなりました。 これらの道具は地域の皆様のおかげでありますし、貴重な自治会の財産でもあります。  
                宮下囃子保存会第二代会長 常盤 勇氏のお話しから  (平成25年談)